2013年9月7日土曜日

ああ上野駅(井沢八郎) 昭和39年

あゝ上野駅(ああ上野駅)は、昭和39年(1964年)に発表された。この年は東京オリンピック開催の年であった。
作詞:関口義明、作曲:荒井英一、歌:井沢八郎

関口義明が上野駅で見かけた集団就職の少年たちを題材に詞を書き、農家向け家庭雑誌『家の光』の懸賞に応募して1位入選を果たした。

集団就職で上野駅に降り立ち、東京で生活を始めた若者の心情を歌った歌。 集団就職とは、地方の中卒者が東京など大都市の工場や商店に集団で就職したことである。集団就職が行われた時期は、高度経済成長期と重なり、中卒者は「金の卵」ともてはやされた。

書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会

1 どこかに故郷の香りをのせて 
  入る列車のなつかしさ
  上野は俺らの心の駅だ 
  くじけちゃならない人生が
  あの日ここから始まった

2 就職列車にゆられて着いた 
  遠いあの夜を思い出す
  上野は俺らの心の駅だ 
  配達帰りの自転車を
  とめて聞いてる国なまり

3 ホームの時計を見つめていたら 
  母の笑顔になってきた
  上野は俺らの心の駅だ 
  お店の仕事は辛いけど
  胸にゃでっかい夢がある

昭和歌謡 書生節 昭和演歌師 平成演歌師 東京オリンピック

2013年8月5日月曜日

昭和ロマンを楽しむ会(バイオリン演歌・書生節) 演奏曲目

昭和ロマンを楽しむ会                                    
                         (バイオリン演歌・書生節)  
明治・大正を含め、昭和を中心とした演歌・唱歌をヴァイオリンとウクレレ伴奏で歌い、また皆様にも歌っていただいているグループです。 
明治・大正
*美しき天然*嗚呼玉杯に花うけて*人を恋うる歌*スカラーソング*七里ヶ浜の哀歌*まっくろけ節*カチューシャの唄*ゴンドラの唄*金色夜叉の唄*さすらいの唄*のんき節*琵琶湖周航の歌*コロッケの唄*船頭小唄復興節*月は無情*籠の鳥*故郷*村祭里の秋(星月夜)、その他唱歌多数

出演その他お問い合わせ先:http://www.geocities.jp/peaceman_f/syowa-roman/index.htm
昭和ロマンを楽しむ会(帝大生ゆめじ&青空ぴーまん) 

代表:福永(青空ぴーまん)(千葉県市川市)
e-mail : 
peaceman_f@yahoo.co.jp
自治体・町会などのお祭り、神社などの祭礼、宴会余興、敬老会・誕生日会などの集まり、地域貢献活動、施設訪問などさまざまな機会に出演致しますので、お気軽にお問い合わせください。
           帝大生ゆめじ&青空ぴーまん

書生節 バイオリン演歌 大正演歌 昭和歌謡 戦時歌謡 愛唱歌 流行歌 寮歌 バイオリン Violin Fiddle  ウクレレ Ukulele 平成演歌師 昭和演歌師 

2013年8月2日金曜日

蘇州夜曲(李香蘭) 昭和15年


蘇州夜曲
作詞:西條八十作詞、作曲:服部良一、歌:李香蘭(山口淑子)

蘇州夜曲は李香蘭主演の映画「支那の夜」(1940年(昭和15年)6月公開)の劇中歌として発表された。同年8月に渡辺はま子・霧島昇歌唱でコロムビアからレコードが発売された。

映画「支那の夜」:東宝の看板スター、長谷川一夫と満映(満洲映画協会)の看板スター、李香蘭との共演による映画である。

バイオリン演歌・書生節演奏:
昭和ロマンを楽しむ会(書生&女学生)

君がみ胸に 抱かれて聞くは
夢の船唄 鳥(恋)の歌
水の蘇州の 花散る春を
惜しむか柳が すすり泣く

花をうかべて 流れる水の
明日のゆくえは 知らねども
こよい映した ふたりの姿
消えてくれるな いつまでも

髪に飾ろか 接吻しよか
君が手折りし 桃の花
涙ぐむよな おぼろの月に
鐘が鳴ります 寒山寺

昭和15年(1940)に公開された日中合作映画「支那の夜」の中で李香蘭が歌ったのが「蘇州夜曲」である。この映画は国策映画であり、戦後は映画の名前も変わり、いまはもう公開されることもないそうだ。

「中国も日本も大好きです」という混血の美女、李香蘭も戦後、売国奴(漢奸)として裁かれるかに見えたが、実は日本人と中国人のハーフというのは全くのうそで完全なる日本人(山口淑子)であった。

流暢な中国語にだまされた中国人が悪いのであって、日本人だから国策映画に出て日本に好意的な発言をするのは当たりまえだったのだ。中国外へ追放はできても中国人ではないので反逆罪で罰することはできなかった。
李香蘭は中国人として振舞い、国策を推進して人気を得た後、敗戦で国賊として裁かれるかのよう見えたが戸籍で日本人であることを証明した。

バイオリン演歌 書生節 昭和歌謡 昭和演歌師 平成演歌師 帝大生ゆめじ&青空ぴーまん

2013年7月18日木曜日

異国の丘(竹山逸郎/中村耕造) 昭和23年


異国の丘(1948) 異国之丘
作詞:増田 幸治、補詞:佐伯 孝夫、作曲:吉田 正、歌:竹山逸郎/中村耕造

昭和23年(1948)、NHKラジオ番組「素人のど自慢」で、シベリアから復員してきた中村耕造さんが歌って合格の鐘を鳴らした。 シベリア抑留者の望郷の思いを歌った歌。

シベリア抑留兵だった増田幸治が作詞し、シベリアに抑留されていた兵士の間で歌われた。原題:「昨日も今日も」1949年(昭和24年)に同名の映画も公開された。

書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会

今日も暮れゆく 異国の丘に   友よつらかろ せつなかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ  帰る日も来る 春が来る

今日も更けゆく 異国の丘に    夢も寒かろ 冷たかろ
泣いて笑うて 歌って耐えりゃ  望む日が来る 朝が来る

今日も昨日も 異国の丘に        重い雪空 ひが薄い
倒れちゃならない 祖国の土に   たどりつくまで その日まで

異国の丘 昭和ロマンを楽しむ会 書生節 昭和歌謡 昭和演歌師 平成演歌師 流行歌 POW Siberia USSR Soviet Russia

軍艦行進曲 (軍艦マーチ)


「軍艦行進曲」または行進曲「軍艦」は、瀬戸口藤吉作曲の行進曲で明治時代に作られた。一般に「軍艦マーチ」として広く知られている。 Warship March, Gunkan koshinkyoku

日本を代表する行進曲の一つであり、戦後はパチンコ店などでも流されるなど、広く国民に親しまれていた。

作詞は鳥山 啓である。現在では難しい歌詞だがかっこいいことに変わりはない。
石炭を燃料にして蒸気タービンを回して荒波を進む軍艦のイメージであろう。

「皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし」:今も日本列島は日本人が守らなければならないことに変わりはない。

書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会

守るも攻めるも黒鉄(くろがね)の
浮かべる城ぞ頼みなる
浮かべるその城日の本の
皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし
真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に
仇なす国を攻めよかし

石炭(いわき)の煙は大洋(わだつみ)の
竜(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
弾撃つ響きは雷(いかづち)の
声(こえ)かとばかり響(どよ)むなり
万里の波濤(はとう)を乗り越えて
皇国(みくに)の光輝かせ

軍歌 大日本帝国 海軍 海上自衛隊

新民謡「東京音頭」 昭和8年


新民謡「東京音頭」  (天天二九暝) Tokyo ondo
「東京音頭」作詞:西條八十、作曲:中山晋平、唄:小唄勝太郎/三島一声



盆踊りの定番曲として親しまれ、またプロ野球チーム・東京ヤクルトスワローズや、プロサッカークラブ・FC東京の応援歌として使われている。いろいろな替え歌(春歌)もある。



バイオリン演歌・書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会(帝大生ゆめじ&青空ぴーまん) 施設ライブ
原曲は「丸の内音頭」という曲名で1932年(昭和7年)に制作され、日比谷公園での盆踊り大会で披露された。

1933年(昭和8年)、「東京音頭」と改題・改詞され、小唄勝太郎と三島一声が歌ってレコード化され、爆発的に流行した。勝太郎の景気のよい歌声が日本中に響き渡った。

ハァ 踊り踊るなら チョイト  東京音頭 ヨイヨイ
花の都の 花の都の真中で サテ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハァ 花は上野よ チョイト 柳は銀座 ヨイヨイ
月は隅田の 月は隅田の屋形船 サテ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハァ おさななじみの チョイト 観音様は ヨイヨイ
屋根の月さえ 屋根の月さえなつかしや サテ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハァ 西に富士の嶺(みね) チョイト 東に筑波 ヨイヨイ
音頭とる子は 音頭とる子はまん中に サテ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハァ よせて返して チョイト 返して寄せる ヨイヨイ
東京繁昌(はんじょう)の 東京繁昌の人の波 サテ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハァ 昔や武蔵野 チョイト 芒(すすき)の都 ヨイヨイ
今はネオンの 今はネオンの灯の都 サテ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ

(以下は戦後、現在は歌われていない歌詞)

ハア 東京よいとこ チョイト 日本てらす ヨイヨイ
君が御稜威は 君が御稜威は天照らす サテ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハア おらが丸の内 チョイト 東京の波止場 ヨイヨイ
雁と燕の 雁と燕の上り下り サテ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハア 君と臣との チョイト 千歳の契り ヨイヨイ
結ぶ都の 結ぶ都の二重橋 サテ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハア 花になるなら チョイト 九段の桜 ヨイヨイ
大和心の 大和心のいろに咲く サテ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ

西條八十 中山晋平 小唄勝太郎 三島一声 書生節 バイオリン演歌 大正演歌 演歌師 昭和歌謡 昭和ロマンを楽しむ会 昭和演歌師 平成演歌師

丘を越えて(藤山一郎) 新興映画「姉」主題歌 昭和6年

丘を越えて 藤山一郎  1931年(昭和6年) 新興映画「姉」主題歌   Okao koete

「丘を越えて」は、1931年(昭和6年)に発表された新興映画『姉』の主題歌である。日本コロムビアから藤山一郎の歌唱によって発売された。

もとは「ピクニック」という明治大学マンドリン倶楽部のマンドリン合奏曲として作曲された曲であったが、それに島田芳文が詞をつけたものが「丘を越えて」である。

マンドリンの伴奏演奏だけの時間の方が藤山一郎が歌っている時間よりも長いという歌曲である。

バイオリン演歌・書生節演奏:
昭和ロマンを楽しむ会(帝大生ゆめじ) 
江戸東京博物館 常設展示室5階中村座前 
島田芳文 作詞 古賀政男 作曲 藤山一郎 歌

丘を越えて行こうよ
真澄の空は朗らかに晴れて
楽しい心 鳴るは胸の血潮よ
讃えよ わが青春を
いざゆけ 遙か希望の丘を越えて

丘を越えて行こうよ
小春の空は麗らかに澄みて
嬉しい心 湧くは胸の泉よ
讃えよ わが青春を
いざ聞け 遠く希望の鐘は鳴るよ

書生節 バイオリン演歌 昭和歌謡 映画主題歌 流行歌 昭和演歌師 平成演歌師

「惜別の歌」(Regret at parting) 小林 旭



惜別の歌 書生節 Cover version 惜別之歌 farewell regret at parting


惜別の歌 作詞:島崎藤村、作曲:藤江英輔、歌:小林 旭

昭和20年頃に藤江英輔によって作られた学徒出陣する学友を送る歌である。昭和36年(1961)に小林 旭によってヒットした。



書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会 (200908)

帝国憲法下において20歳以上の男子は徴兵の義務があった。金持ちでも貧乏人でも妻帯者でも、やくざであってもみなほぼ平等に徴兵された。

ただし、20歳以上の学生(26歳まで)は徴兵猶予制度があり卒業まで徴兵されなかったが、戦争が激しくなるとまず繰り上げ卒業が行われ、次に徴兵猶予制度がなくなり、在学中に学徒出陣していった。正確には、文系の学生が徴兵され理系学生は徴兵されなかったが軍需工場や研究所で働いた。

学生でない同年齢の社会人はとっくに徴兵されていたので学生が優遇されていただけでかわいそうという話ではなく日本では学生や職業にかかわらず平等であった。

遠き別れに たえかねて
この高殿(たかどの)に 登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
旅の衣(ころも)を ととのえよ

別れといえば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺(なが)むれば
夢はずかしき 涙かな

君がさやけき 目のいろも
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
またいつか見ん この別れ

君が優しき なぐさめも
君が楽しき うた声も
君が心の 琴の音も
またいつか聞かん この別れ

島崎藤村の詩集「若菜集」の「高楼(たかどの)」の中から選んだ。

大学時代に、学徒出陣した文系の教授が「お前ら理系の学生は徴兵されなかったんだ。死ぬ気で勉強しろ!」といわれたことが懐かしい。 「僕らにそんなこといわれてもーー」とあまり真剣に勉強しなかったことを今になって後悔している。

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湯島の白梅(婦系図の歌) 小畑 実  昭和17年


湯島の白梅(婦系図の歌)
作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄、唄:小畑 実&藤原亮子

明治の文豪、泉鏡花の小説『婦系図(おんなけいず)』をテーマとした歌である。
この歌は昭和17年(1942)7月公開の東宝映画『婦系図』(マキノ正博監督)の主題歌として作られた。『婦系図』は何回も映画化されている。



『婦系図』は、尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』とともに、明治の三大悲劇、メロドラマである。

書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会

湯島通れば 想い出す
お蔦主税の 心意気
知るや白梅 玉垣に
残る二人の 影法師

忘れられよか 筒井筒(つついづつ)
岸の柳の 縁むすび
かたい契りを 義理ゆえに
水に流すも 江戸育ち

青い瓦斯燈(がすとう) 境内を
出れば本郷 切通し
あかぬ別れの 中空(なかぞら)に
鐘は墨絵の 上野山

映画化
婦系図(1934年公開、松竹製作)
 監督:野村芳亭、脚色:陶山密、主演:田中絹代、岡譲二
婦系図(1942年公開、東宝製作)
 監督:マキノ正博、脚色:小国英雄、主演:長谷川一夫、山田五十鈴
続婦系図(1942年公開、東宝製作)
 監督:マキノ正博、脚色:小国英雄、主演:長谷川一夫、山田五十鈴
主題歌:婦系図の歌(別名:湯島の白梅 作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄、歌:小畑実、藤原亮子)
婦系図 湯島の白梅(1955年公開、大映製作)
 監督:衣笠貞之助、脚本:相良準、主演:鶴田浩二、山本富士子
婦系図 湯島に散る花(1959年公開、新東宝製作)
 監督:土居通芳、脚本:金田光夫、主演:高倉みゆき、天知茂
婦系図(1962年公開、大映製作)
 監督:三隅研次、脚本:依田義賢、主演:市川雷蔵、万里昌代

昭和ロマンを楽しむ会 書生節 昭和歌謡 昭和演歌師 平成演歌師

2013年7月17日水曜日

紅葉(もみじ)  尋常小学唱歌 明治44年

紅葉(もみじ) 尋常小学唱歌 作詞:高野辰之、作曲:岡野貞一 明治44年(1911)

紅葉は「尋常小学唱歌 第二学年用」に載っていた。高野辰之と岡野貞一とのコンビは「紅葉(もみじ)」以外に「故郷(ふるさと)」、「春が来た」、「春の小川」、「朧月夜(おぼろづきよ)」などの有名な曲をたくさん残している。

書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会
秋の夕日に  照る山紅葉(もみじ)
濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓(かえで)や蔦(つた)は
山のふもとの 裾模様(すそもよう)

渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
波に揺られて 離れて寄って
赤や黄色の  色さまざまに
水の上にも  織る錦

紅葉(もみじ) 高野辰之 岡野貞一 尋常小学唱歌 書生節 バイオリン演歌 昭和ロマンを楽しむ会 昭和演歌師 平成演歌師

船頭小唄(枯れすすき)  大正12年

船頭小唄(枯れすすき) 書生節 (Cover version)  Sendoukouta

作曲: 中山晋平(著作権消滅)  作詞: 野口雨情(著作権消滅)

書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会
1921年(大正10年)に民謡「枯れすすき」として野口雨情が作詞し中山晋平が作曲した。1923年(大正12年)、「船頭小唄」としてレコード化されヒットした。多くの演歌師によって歌われたが後にソプラノ歌手の佐藤千夜子も歌っている。

大正12年(1923)、「船頭小唄」は栗島すみ子・岩田祐吉主演で映画化され、その年の9月1日に関東大震災が起こり、東京は焼け野原となった。

こんなわびしい、悲しい歌がはやったから関東大震災が来て東京が焼け野原になったんだと悪口を言うぐらい流行した。また、この地震を予知していた曲だったのではという説が流布した。

演歌師によってたくさんの替え歌ができた。演歌師の添田唖蝉坊は「俺は東京の焼け出され、同じお前も焼け出されどうせ二人はこの世では何も持たない焼け出され」という替え歌を歌った。

戦後、森繁久彌が歌ってリバイバルヒットした。「枯すすき」というフレーズが人生の哀愁を暗示している。

作詞:野口雨情、作曲:中山晋平

1 おれは河原の 枯れすすき
  同じお前も 枯れすすき
  どうせ二人は この世では
  花の咲かない 枯れすすき

2 死ぬも生きるも ねえお前
  水の流れに なに変わろ
  おれもお前も 利根川の
  船の船頭で 暮らそうよ

3 枯れた真菰(まこも)に 照らしてる
  潮来出島(いたこでじま)の お月さん
  わたしゃこれから 利根川の
  船の船頭で 暮らすのよ

4 なぜに冷たい 吹く風が
  枯れたすすきの 二人ゆえ
  熱い涙の 出た時は
  汲んでおくれよ お月さん

書生節 バイオリン演歌 大正演歌 関東大震災 昭和演歌師 平成演歌師 昭和ロマンを楽しむ会

蒲田行進曲(松竹映画小唄) 松竹キネマ蒲田撮影所

松竹映画小唄 蒲田行進曲  (放浪者の歌(Song of the Vagabonds))
角川映画「蒲田行進曲」主題歌  
作詞:Brian Hooker  作曲:Rudolf Friml 訳詞:堀内敬三

書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会
1929年堀内敬三が松竹キネマ「親父とその子」の主題歌として歌詞をつけたものが原曲。その後松竹キネマ蒲田撮影所の社歌となった。1929年(昭和4年)に川崎豊と曽我直子のデュエットで日本コロムビアからレコードが発売され流行歌となった。 松竹ジャズバンド

1982年(昭和57年)映画「蒲田行進曲」の主題歌として使用され、松坂慶子・風間杜夫・平田 満が歌った。JR東日本京浜東北線蒲田駅では発車メロディとして使用されている。

虹の都光の港 キネマの天地
花の姿春の匂い あふるるところ
カメラの眼に映る かりそめの恋にさえ
青春もゆる 生命(いのち)はおどる キネマの天地

胸を去らぬ想い出ゆかし キネマの世界
セットの花と輝くスター ほほえむところ
瞳の奥深く 焼付けた面影の 
消えて結ぶ 幻の国 キネマの世界

春の蒲田花咲く蒲田 キネマの都
空に描く白日の夢 あふるるところ
輝く緑さえ とこしえの憧れに
生くる蒲田 若き蒲田 キネマの都

書生節 昭和歌謡 昭和演歌師 平成演歌師 

奉祝国民歌「紀元二千六百年」 昭和14年

昭和14年(1939)に紀元2600年を祝うために歌詞および曲ともに国民から公募されたもので、連日、NHKのラジオで流され、広く国民の間に広がった。
(作詞:増田好生、作曲:森義八郎、歌唱:レコード各社) 
 
なお、「紀元二千六百年」は小学校女子のゴム飛びの歌「きんし輝く日本の」の元歌であり、ゴム飛びの歌は昭和末期まで全国的に歌い継がれていた。
ゴム飛び遊び歌:「きんし(キシ)輝く日本のアメリカ、フランス、ヨーロッパ・・・」
 
メロディをを知らない方々にバイオリンで弾いてもらってもハーモニカで吹いてもらっても皆さん演奏しやすいという。やはり生き残っている歌というものは覚えやすいとか演奏しやすいとかどこか特徴があるようである。名前も国民歌「紀元二千六百年」となっている。小学生も覚えやすいので遊び歌に使用してきたのであろう。
 
子供の頃、神社や地域のちょっとした広場に国旗掲揚台があってその横に「紀元二千六百年」と書いた石柱が立っていた。いまでもたまに見かける。
 
奉祝国民歌「紀元二千六百年」 
バイオリン演歌・書生節演奏:
 昭和ロマンを楽しむ会(帝大生ゆめじ&青空ぴーまん)
 
金鵄輝く 日本の     栄ある光 身にうけて
いまこそ祝へ この朝  紀元は 二千六百年
ああ 一億の胸は鳴る
 
歓喜あふるる この土を  しっかと我等 ふみしめて
はるかに仰ぐ 大御言   紀元は 二千六百年
ああ 肇国の雲青し   
 
荒ぶ世界に 唯一つ   揺がぬ御代に 生立ちし
感謝は清き火と 燃えて 紀元は 二千六百年
ああ 報国の血は勇む
 
潮ゆたけき 海原に   桜と富士の 影織りて
世紀の文化 また新た  紀元は 二千六百年
ああ 燦爛のこの国威
 
「金鵄」とは古事記とか日本書紀に出てくる"金色のトビ"のことで、神武天皇の東征の時に、弓の先にとまったという伝説の鳥。

奉祝國民歌 国民歌 紀元二千六百年 紀元2600年 戦時歌謡 昭和歌謡 書生節(バイオリン演歌) 演歌師 大正演歌 昭和の演歌師 平成の演歌師

隣組 (NHK国民歌謡)  徳山 璉 昭和15年

「隣組」は昭和15年(1940)にNHK国民歌謡の時間に隣組新体制普及のために放送された。徳山 璉(たまき)によりビクターレコードから発売された。彼も当時よくいた東京音楽学校出身の歌手であった。
東日本大震災発生によって、隣組、町内会の意義や家族・隣近所・地域の絆なども再確認されたことはよかった。なお、戦後にドリフターズも歌っていた。
隣組は、日本の昭和期において戦時体制下における官主導の隣保組織であった。
隣保(りんぽ):近隣の人々によって組織された互助組合。古くは中国でも行われた。
1940年(昭和15年)に内務省が布告した「部落會町内會等調整整備要綱」(隣組強化法)によって制度化された。5軒から10軒の世帯を一組とし、団結や地方自治の進行を促し、戦争での住民の動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行った。敗戦後の1947年(昭和22年)にGHQにより解体された。
現在でも、回覧板の回覧など、隣組単位で行なわれていた活動の一部は、町内会・区・自治会に引き継がれている。しかし地方でもアパート住人などは年会費が必要な町内会や自治会に加入しないので地方自治体のお知らせなどが回覧板によって連絡できなくなっている。
町内会に加入していない方々の慣例違反やごミ出しルール違反などは我慢するとしても大災害時の対応などを考えるとやはり近所の人全員によって自主的に組織された隣組のようなものは必要であろう。
ごみ集積所のごみを入れるアルミ製かごや町内の防犯灯の電気代等はみんなの自治会費から支払っているので自治会に加入してくださいとお願いしても「回覧板は回さないでほしい、そんな環境整備費用は税金で払うべきだ」との議論をしてくる住民もいる。何でも官にまかせず、近所で自主的に行動して住みよくするのが隣組(町内会・自治会)だと思うのだが・・・
書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会 
 バイオリン演歌・書生節演奏:
昭和ロマンを楽しむ会(帝大生ゆめじ&青空ぴーまん&女学生)
 <隣組 岡本一平作詞 飯田信夫作曲>
とんとん とんからりと 隣組
格子を開ければ 顔なじみ
まわして頂戴 回覧板
知らせられたり 知らせたり
とんとん とんからりと 隣組
あれこれ面倒 味噌醤油
ご飯の炊き方 垣根越し
教えられたり 教えたり
とんとん とんからりと 隣組
地震やかみなり 火事どろぼう
互に役立つ 用心棒
助けられたり 助けたり
とんとん とんからりと 隣組
何軒あろうと一所帯
こころは一つの 屋根の月
纏められたり 纏めたり

東日本大震災後に復興応援歌として施設等で歌っているが昔の近所付き合い等が懐かしく感じられるのか好評である。

隣組  町内会  自治会  隣・近所  地域社会  絆  東日本大震災復興応援歌  戦時歌謡  昭和歌謡 書生節 演歌師 昭和の演歌師 平成の演歌師

スカラーソング(箱根八里の替歌)

箱根八里の八里とは、旧東海道の小田原宿から箱根宿までの四里と箱根宿から三島宿までの四里をあわせた八里だそうである。 「箱根八里」は1901年(明治34年)に発行された「中学唱歌」である。(鳥居忱作詞、滝廉太郎作曲)

「なんだ神田の神田橋」という文句は、香具師の寅さんの「なんだ神田の神田橋、ちゃらちゃら流れる御茶ノ水、粋な姉ちゃん立小便」という口上にも使われている。

「箱根八里」は、大変流行したらしく、たくさんの替え歌が作られた。その中で一番有名なのが、演歌師の神長瞭月作詞による「スカラーソング」である。スカラーソング(Scholar song)とは学生の歌という意味か。書生姿の演歌師が大道でまずこの「スカラーソング」をバイオリンで歌って客集めをしたらしい。あのエノケン(榎本健一)もスカラーソングを歌っている。

スカラーソングを作詞した神長瞭月は、演歌の伴奏楽器として初めてバイオリンを使用した先駆者(パイオニア)である。やはりこの曲は三味線やギターではなく、バイオリン伴奏で歌うべきであろう。

スカラーソングは、当時の世相の風刺歌である。1番では安月給取り(安サラリーマン)、2番では「芋書生」の貧しく哀れな状況を物語りとして面白く語っている。今流に言えば、競争激化における「格差」を問題にしているのであろう。

明治になって士農工商の身分制度(障壁)が崩壊し、各階級においてそれなりに生活していたのが自由競争となった生存競争の舞台を歌っている替歌である。

当時のサラリーマン家庭の内職の様子や、学生生活が分かり現代でも面白い。
「月給取りや九円(食えん)」「ボタンかがり(麻糸つなぎ)の手内職」、「1銭で焼き芋」、「2銭であんパン」

バイオリン演歌・書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会(帝大生ゆめじ&青空ぴーまん)    2012年11月

なんだ神田の神田橋、朝の五時ごろ見渡せば
破れた洋服に弁当箱さげて てくてく歩きの月給とりや九円(食えん) 
自動車飛ばせる紳士を眺め ホロリホロリと泣き出す、
神よ仏よよく聞きたまえ 天保時代のもののふ(武士)も 今じゃ哀れなこの姿 
内では山ノ神がボタンかがり(麻糸つなぎ)の手内職
十四の娘はタバコの工場(こうば) 臭いはすれどキザミも吸えない
いつでもお金は内務省よ、
かくこそあるなれ 生存競争の活舞台(かつぶだい)

金こそ無けれ天下の士 断食するもものならず 
一銭ありゃ焼き芋 二銭ありゃあんパン
前歯でかじり後えにさぐる 雲か山か踏み破る おなかは鞭声しくしく
土よりも真っ黒な木綿の破れぎぬ 小倉の白袴は垢でなめらか
一厘に買うや買わずの 薄っぺらなる薩摩下駄 
帝都に旅する豪気な書生は 大道は狭しと肩で風切り 
下宿屋の四畳半じゃ天下を論ずる
かくこそあるなり 二十世紀の芋書生

「弁当箱さげて、てくてく歩きの月給とり」
弁当(Bento)は世界的に有名になった。昔は外食などせずに子供から大人まで弁当を持って出かけたが、いまや「腰弁当(腰弁)」や「駅弁」は死語になりつつある。
腰弁当:
(1)腰に弁当をさげて出かけること。腰弁
(2)江戸時代、勤番の下侍がはかまの腰に弁当を結び付けて出仕したことから、日々弁当を携えて出勤するような、小役人や地位の低い勤め人。安サラリーマン。腰弁。

もののふ(武士):箱根八里の歌詞は「もののふ」であるが、「さむらい」や「ちょんまげおやじ」と歌っている音源もある。
薩摩下駄:書生下駄、せんべ下駄と歌っているのを聞いたこともある(ちびて下駄の歯がなくなってしまった下駄)

「なんだ神田の神田橋」
神田橋のあたりは、今の霞ヶ関のような場所で官公庁が多かったらしい。今でも神田橋のあたりには大手町合同庁舎、東京国税局、経団連会館、郵政公社などがある。

「下宿屋の四畳半じゃ天下を論ずる かくこそあるなり 二十世紀の芋書生」
下宿で天下を論じたりするのはわれわれの学生時代もそうであったが、現代の学生は何を論じているのだろうか。

帝大生ゆめじ 書生節 バイオリン演歌 大正演歌 演歌師 昭和の演歌師 平成の演歌師 

嗚呼玉杯に花うけて(第一高等学校寮歌) 明治35年


フォーク以前から演歌師は自分たちで曲を作りその歌を歌う自作自演であった。もちろん、この寮歌もプロではなく、一高の寮生が作詞、作曲をした。

「嗚呼玉杯に花うけて」は明治35年(1902年)に作られた 「第12回紀念祭東寮寮歌」である。矢野勘治 作詞、楠正一 作曲で原曲は長調だったが、短調化して広まったようである。今は東大の応援団も短調で歌っている。
もちろん、われわれも短調のCmかDmで演奏しているが、仲間の演歌師1名だけがいまだに長調でかたくなに演奏している。

当時は、第一高等学校の学生以外に、番頭さんも小僧さんもほとんどの方がよく歌ったようである。そして、この曲を流用した替歌がたくさんできた。後からできた地方の高等学校の寮歌にも似ている曲がある。
大阪高等学校全寮歌「嗚呼黎明は近づけり」を歌い出すといつも「嗚呼玉杯」の曲がが頭に浮かんでくる。

バイオリン演歌・書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会(帝大生ゆめじ&青空ぴーまん)

<ああ玉杯に花うけて(第一高等学校東寮寮歌)>

ああ玉杯に 花うけて   緑酒に月の 影やどし
治安の夢に ふけりたる  栄華のちまた 低くみて
向ヶ岡に そそりたつ   五寮の健児 意気高し

芙蓉の雪の 精をとり   芳野の花の 華をうばい
清き心の ますらおが   剣と筆とを とり持ちて
ひとたび起たば 何事か  人生の偉業 成らざらん

われわれは「治安の夢にふけりたる栄華のちまた」でのほほんと暮らしていたのかもしれない。
平和ぼけした一般国民や政治家、官僚などの特権階級がこのような大災害が起こることは「想定外」にして、ライトアップしたり、都心近くの海を埋め立てたりして便利に暮らしていたことを実感した。

夜は暗いもの、子供の頃は「暗くなったら帰れ!」、「夜に用事をするな」とよくいわれたものである。以前からなぜ夜に「ライトアップ」するのか理解できなかったんだがーーー、そのことを忘れていたが電力不足で思い出した。

「向ヶ岡にそそり立つ 五寮の健児意気高し」とあるのは、当時一高が向ヶ岡すなわち本郷弥生町(現在の東大農学部)の丘陵にあったことによる。その後帝大農学部との交換で、一高は昭和10年に本郷から駒場へ移転した。

嗚呼玉杯に花受けて 旧制一高寮歌 日本寮歌祭2010

矢野勘治:「春爛漫の花の色」「嗚呼玉杯に花うけて」を作詞
楠 正一:「嗚呼玉杯に花うけて」を作曲

ああ玉杯に花うけて 書生節 バイオリン演歌 大正演歌 演歌師 昭和の演歌師 平成の演歌師

「東京節」 別名「パイノパイノパイ」


「東京節」はアメリカの"Marching through Georgia"(ジョージアマーチ)の曲に演歌師の添田知道(添田さつき)が作詞し、大正時代に大いに流行したコミックソングである。東京の名所が歌われており、別名「パイノパイノパイ」とも呼ばれる。

最初は東京名所のみを取り上げていたと思われるが、のちに大阪、神戸、京都や名古屋を歌った歌詞も流行した。また、世相を風刺する替歌もたくさん作られている。

バイオリン演歌・書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会(帝大生ゆめじ&青空ぴーまん)  

東京節(パイノパイノパイ) 書生節

  「東京節」
東京の中枢は 丸の内 日比谷公園 両議院
いきな構えの 帝劇に いかめし館は 警視庁
諸官省ズラリ 馬場先門(ばばさきもん) 海上ビルディング 東京駅
ポッポと出る汽車 どこへ行く
ラメチャンタラ ギッチョンチョンで パイノパイノパイ
パリコト パナナで フライ フライ フライ

東京で繁華な 浅草は 雷門 仲見世 浅草寺
鳩ボッポ豆売る お婆さん 活動 十二階 花屋敷
すし おこし 牛 天ぷら なんだとこん畜生で お巡りさん
スリに乞食に カッパライ
ラメチャンタラ ギッチョンチョンで パイノパイノパイ
パリコト パナナで フライ フライ フライ

いろいろな演歌師が歌っており、榎本健一や森山加代子も歌った。また、ザ・ドリフターズの「ドリフのバイのバイのバイ」もあった。
1971年公開の植木等主演映画「日本一のショック男」の挿入歌としても植木等が東京節(パイノパイノパイ)の替歌を歌っている。
最近ではアニメ「大正野球娘」で鈴川小梅も「東京節」を歌っていた。

われわれも演芸では必ず歌う書生節の歌である。
なお、今では「乞食」が不適切な用語であるため他の言葉にしたCDもあった。

「ラメチャンタラ ギッチョンチョンでーーーー」は意味不明であるが、ギチョンチョンははやし言葉のようである。さのさ節に「ぎちょんちょん」という唄がある。 
ぎっちょんちょん:日本国語大辞典 明治初期に流行した歌謡の中で用いられているはやし言葉

「高い山から谷底見ればーー」のぎちょんちょんは今でもお座敷でお姉さんたちとお客さんが一緒になってやっていた(お座敷遊び)。
http://www.youtube.com/watch?v=yTwq1fzXAZg
ぎっちょんちょん さのさ節(柳家小春)
http://www.youtube.com/watch?v=TVTXeLdZFxk

書生節 バイオリン演歌 大正演歌 演歌師 昭和の演歌師 平成の演歌師

2013年7月16日火曜日

文部省唱歌 雪(雪やこんこ) 明治44年

この歌はもう100年も前の歌であるが、昔は知らない子はいないほど有名な歌であった。もちろんみんな小学校前から歌っていた。

いまでもアニメソングばかり歌う幼稚園児でさえ2番までしっかり歌えるのにはちょっとびっくりしたが、時代を超えて歌われることにうれしくなった。 

この歌を歌うたびに、たまにしか降らない雪の翌日、子供たちがよろこんでいつまでも外で遊んでいたことを思い出す。都会でも昔は年に1-2回は鉄道がが止まるほど雪が降っていたが最近はめったにそういくことがなくなった。

書生節・バイオリン演歌演奏:昭和ロマンを楽しむ会 デイサービスにて
文部省唱歌 雪(雪やこんこ)

明治44年(1911)尋常小学唱歌  雪

雪やこんこ 霰(あられ)やこんこ
降っては降っては ずんずん積もる
山も野原も 綿帽子かぶり
枯木(かれき)残らず 花が咲く

雪やこんこ 霰やこんこ
降っても降っても まだ降りやまぬ。
犬は喜び 庭かけまわり
猫はこたつで 丸くなる


書生節 バイオリン演歌 大正演歌 演歌師 唱歌 昭和の演歌師 平成の演歌師

村まつり(村祭)  文部省唱歌


市町村合併でほとんどの県で村が少なくなり、なくなってしまった県もある。
明治時代の「尋常小学唱歌」である村祭は「親子で歌いつごう 日本の歌百選(2006)」にも入っており、名曲であるがもう学校の教科書には載っていないらしい。

この曲を聞くと、子供の頃の神社の大祭を思い出す。近くの八幡さんや天神さん、権現さんという神社のお祭りに仲間と繰り出して遊んだ楽しい思い出がある。カーバイドを使ったアセチレンガスの灯りと賑わい、夜のちょっとした冒険がなつかしい。権現さんというのは正式にはどういう神社だったかはもう思い出せない。

秋に板橋区成増の菅原神社(天神様)の境内で村祭を歌ったが、聞いていた外国人からいい曲ですね、歌詞や楽譜をコピーさせてくださいといわれた。リズミカルな本当にお祭りにふさわしい日本の曲であり、若い方も歌い継いでほしい。

書生節(バイオリン演歌)演奏:昭和ロマンを楽しむ会(with violin & ukulele) 
        村祭(文部省唱歌)

  村の鎮守の    神様の
  今日はめでたい  御祭日(おまつりび)
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ 
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  朝から聞こえる  笛太鼓

  年も豊年     満作で
  村は総出の    大祭(おおまつり)
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  夜まで賑う    宮の森

帝大生ゆめじ&青空ぴーまん 書生節(バイオリン演歌 演歌師 昭和の演歌師 平成の演歌師

金色夜叉の唄(新金色夜叉の唄)

「欲か迷いか両親の勧めに従い宮さんは、富山なのる唯継と夫婦約束ーーー」

 尾崎紅葉が読売新聞に連載した小説「金色夜叉」の名場面といえば”熱海の海岸、貫一・お宮泣き別れの場面”である。金持ちのお宮が自分のところに居候していた婚約者であるエリート学生、貫一を捨てて大金持ちの銀行家に乗り換えたという話である。現代流にいえば、より良い条件の提示があり、本契約の前に仮契約を破棄しただけの話になるようだ。なお、この話は外国の小説に種本があるらしい。

「金色夜叉の唄」を聞くと、F・スコット・フィッツジェラルドの小説『グレート・ギャツビー』(The Great Gatsby (1925年))を読んだり、同名の映画を見た記憶がよみがえる。

そのストーリーは、金持ちの恋人に振られて、見返すために大金持ちになって彼女の前に現れるという話であったような気がする。男がどうして結婚してくれないのかと恋人に詰問すると、彼女は"I'v changed my mind, Rich girls don't mary poor boys."といって泣き崩れたのが印象的であった。

もちろん、"rich"には金持ちだけでなく、価値ある(valubale)という意味も含んでいるはずである。苦学して帝大を出ただけでは単なる優秀だがpoor boyで、帝大における教育・訓練を社会で活用して金も稼げルようになるとvaluable manになるということだと前向きに解釈している。勉強にもお金を稼ぐにもすべて一所懸命に努力することが大切なのであろう。

最初の「金色夜叉の唄」は、添田唖蝉坊によって「美しき天然」のメロディーに載せて歌われ、歌詞も残っているが現在では全く歌われていない。

映画の主題歌になり、現在まで歌い継がれているいるのは、正式には「新金色夜叉の唄」という名前である。
1932年『金色夜叉』 - 製作:松竹キネマ蒲田撮影所/寛一:林長二郎、お宮:田中絹代

1月17日は熱海の海岸で貫一とお宮が泣き別れた日であると多くの人がそう信じていたが、阪神大震災(1995年1月17日)後はほとんどの人が1月17日を阪神大震災の日と答えてしまうようになったのがちょっと残念である。

この歌を施設で純真な書生「ゆめじ」がバイオリンで歌うと皆さんが一緒に歌ってくれてなんだか学校唱歌のようになってしまった。
帝大生ゆめじ演奏(唱歌斉唱風 2008年):新金色夜叉

「新金色夜叉」 作詞・作曲:宮島郁芳、後藤紫雲   

1・熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ 共に歩むも今日限り 共に語るも今日限り
2・僕が学校おわるまで 何故(なぜ)に宮さん待たなんだ 夫に不足が出来たのか さもなきゃお金が欲しいのか
3・夫に不足はないけれど あなたを洋行さすがため 父母の教えに従って 富山一家に嫁(かしず)かん
4・何故(いか)に宮さん貫一は これでも一個の男子なり 理想の妻を金に替え 洋行するよな僕じゃない
5・宮さん必ず来年の 今月今夜の此の月は 僕の涙で曇らして 見せるよ男子の意気地から
6・ダイヤモンドに目がくれて 乗ってはならぬ玉の輿 人は身持ちが第一よ お金はこの世のまわり物
7・恋に破れし貫一は すがるお宮を突き放し 無念の涙はらはらと 残る渚に月淋し

書生節 バイオリン演歌 大正演歌 演歌師 昭和の演歌師 平成の演歌師

新墾の此の丘の上 (第一高等学校寮歌)

昔の寮歌はどんな風にして歌っていたのだろうか。ギターなんかなかったので昔の書生は太鼓、ピアノ、バイオリン、ハーモニカ等で寮歌を伴奏して皆で斉唱していたのだろう。マンドリン伴奏の可能性もある。

本郷にあった第一高等学校は帝大農学部と敷地交換して昭和10年9月に駒場に移転した。そして、昭和12年に寮歌「新墾の此の丘の上」が作られた。

曲が二条白線の学帽をかぶった学生のバイオリンから始まる動画を見つけたので紹介する。東大応援部の演奏と歌である。当時はバイオリンやハーモニカで伴奏してこんな風に歌いだしたのだろうと想像する。バイオリンソロは1.5分程度(0:22 -1:51)。

第一高等学校寮歌 新墾の此の丘の上(昭和12年)
第四十七回紀念祭寮歌( 新墾(にいはり)の)  昭和12年(1937)

        序
新墾(にひはり)の此の丘の上            移り來し二歳(ふたとせ)の春
綠なす眞理(まこと)欣求(と)めつゝ    萬巻書(よろずふみ)索(さぐ)るも空し
永久(とこしへ)の昏迷(まよひ)抱きて  向陵(をか)を去る日の近きかな

        追懐(おもひで)
一、
旗薄(はたすすき)野邊に靡きて    片割れの夕月落ちぬ
燦(きらめ)きの星は語らひ      微香(ほのかを)る大地(つち)囁けど
玉の緒は繋ぎもあへず         ひたぶるの男の子の苦悩(なやみ)
三(みつ)の城燈(ひ)も消えゆけば  逝きし友そぞろ偲ばる

二、
ひた寄する沈淪(ほろび)の中を  甦生(たちかへ)る制覇の戰
祝(ほぎ)歌ふ若人の頬(ほ)に  一條(ひとすじ)の涙滴(しずく)す
望月の盈つれば虧くる       嘆にも橄欖(オリヴ)の梢
仰ぎつゝ光榮(はえ)ある城を   動揺(ゆるぎ)なく守(も)り行かんかな

        結
思出は盡きず湧きくれ       逼り來ぬ別離(わかれ)の刻(とき)は
玉蜻(かぎろひ)の夕さり來れば  暮れ殘る時計臺(うてな)めぐりて
集ひ寄る和魂(にぎたま)の群   壽(ことほぎ)の酒掬まんかな

駒場への移転
1924(大正13)年3月  駒場移転の可否を生徒大会にかけ、移転の決議文を満場一致可決、9月に一高と東京帝大間の敷地交換協定調印
1935(昭和10)年 9月14日 駒場移転 南・中・北の3寮を開く
1938(昭和13)年 11月 1日 一高創立60周年記念式典を挙行

書生節 バイオリン演歌

名曲「君恋し」 高井ルビー、二村定一


昭和の初め(昭和4年)に大ヒットした「君恋し」といえば二村定一です。

戦後の「君恋し」といえば、中低音の魅力、フランク永井が有名ですが、あの小林旭も高い声で歌っています。テープを聞くとフランク永井はDmまたはCmぐらいで、小林旭はFm#だった。



ここで紹介するのは浅草オペラの歌姫、高井ルビーが歌う君恋しです。
当時のソプラノ歌手、高井ルビーはGmで歌っている。今聞くと、すごく違和感があるが本格的なソプラノで強烈なビブラートで歌っている。

昭和初期の雰囲気が出ていて帝大生は気に入っている歌声である。今の歌謡曲の歌手ではこんな風には歌えないような気がする。

バイオリンで弾くならDmかGmが弾きやすい。帝大生が弾く場合はG線を使いたくないのでGmになってしまうので高井ルビーと同じキーで歌うということになってしまいつらい(音域はDから高いGまで)。

また、君恋しは競作となったためか、メロディーはおなじでも二村とは歌詞が異なる。

「君戀し」高井ルビー、オリエント 4697-A  B面:枯れ枯れ/二村定一

 君恋し (作詞 時雨音羽、作曲 佐々紅華、唄 二村定一)
宵闇せまれば 悩みははてなし みだれる心に うつるは誰が影 
君恋し 唇あせねど 涙はあふれて 今宵も更け行く 

唄声すぎゆき 足音ひびけど いずこにたずねん こころの面影 
君恋し おもいはみだれて 苦しき幾夜を 誰がためしのばん

 高井ルビー盤
「木枯らし吹きて 思いは深し 夕日を沈めて 哀れをさそう
君恋し わが胸は耐えて 思いはひとしき 誰のすがたよ」  

君恋し 高井ルビー音源(雑音あり)

昭和ロマンを楽しむ会

琵琶湖周航の歌(旧制第三高等学校 ボート部)

OBの心意気 京大ボート部100周年 記念事業に会長1億5000万円寄付という記事が新聞に載った。
(2006年12月25日 産経新聞)

「京大ボート部は明治39年、第三高等学校出身の学生らを中心に創部された。「琵琶湖周航の歌」を部歌とし、瀬田川、琵琶湖を拠点に練習。関西選手権で18回優勝するなど関西学生ボート界をリードしてきた。

 一時は、学生の運動部離れで入部者が激減し、三高-一高戦の伝統を受け継ぐ東大戦でエイト(8人漕ぎ)のクルーが組めないという時期もあったが、現役、OBの熱心な勧誘でしだいに増加。今では医学部ボート部を含め100人近い大所帯に膨れあがった。

 しかし、伝統の部だけに施設は老朽化が激しい。現在の艇庫がつくられたのは約70年前で、合宿所も部員が増えた近年は手狭となっている。

 そこで立ち上がったのがOB会「濃青会」だ。100周年を記念して隣接地(約890平方メートル)を購入し、やはり今年創部50周年を迎えた医学部ボート部と共同で新しい合宿所と艇庫を建てることを決め、2年前の夏、寄付の募集を始めた。

 その結果、OB約1000人と企業などから約1億3000万円が集まった。これに加えて会長が退職金(1億5千万円)を土地購入費として寄付することを決めたのだ。

新しい合宿所は鉄骨2階建て。艇庫は60隻のボートを収容できるほか、トレーニングルームも備え、来春完成の予定だ。」
OB会である濃青会は総勢1000名で、年間1000万円以上寄付しているとのことである。

琵琶湖周航の歌はバイオリンならDかGで演奏するのが簡単である。帝大生はGで歌っている。大正時代の歌であり、昔から学生は歌っていたが、昭和46年、帝大生(東大)の加藤登紀子が『琵琶湖周航の歌』をレコードで出し大ヒットした。また、加藤登紀子の『知床旅情』もヒットした。

今聞くと加藤登紀子は低い声でぼそぼそ歌っている、Bbだと思うが低すぎる(最低音が低いファ)、どうしてこんな声でヒットしたのであろう。曲が良かっただけか。ボート部の学生がこんな調子では絶対歌わないと思う。い
倍賞千恵子も日本の抒情歌名曲選 の中でD調で歌っている。倍賞千恵子の歌は癖がなく個人的には気に入っている。畑儀文はGで歌っている。あと有名なところではペギー葉山も歌っていた。
そして、あの小林旭もなぜかこの歌を歌っている。渡り鳥のイメージではないと思うが学生歌(惜別の歌、北帰行等)をよく歌っている。バイオリン演歌では小林旭のような歌い方はやらないようにと心がけているが、小林旭の歌まねをやっているのを見るのは大好きである。

「湖の子」「さすらいの」「のぼる」「さざなみの」と「の」がたくさん出てくるのでこの「の」を鼻にかけて歌うのとそうでないのとではイメージがずいぶん違ってしまう。学生ならすっきり歌おう。

バイオリン演歌・書生節演奏:昭和ロマンを楽しむ会(バイオリン、ウクレレ、歌)
<琵琶湖周航の歌>
 われは湖(うみ)の子 さすらいの   旅にしあれば しみじみと
 のぼる狭霧(さぎり)や さざなみの  志賀の都よ いざさらば

 松は緑に 砂白き  雄松(おまつ)が里の 乙女子(おとめご)は
 赤い椿の 森蔭に  はかない恋に 泣くとかや

書生節 バイオリン演歌 昭和演歌師 平成演歌師

北帰行(旅順高等学校寮歌) 小林旭主演映画『渡り鳥シリーズ』 主題歌


北帰行は旅順高等学校寮歌だった!
戦前の大日本帝国の勢力が及んのでいた地域にも、旧制高等学校があったが昭和20年の敗戦で消滅した。その他に外地には満州医大予科、京城帝大予科、旅順工大予科、台北高校、台北帝大予科があった。

旅順高校は官立ではあるが、旧文部省の管轄ではなく、旧拓務省所管の関東州立であったらしい。
もう亡くなられたが大連一中、旅順高校、帝大土木工学科卒の自民党代議士で国土庁長官になった方もいらっしゃった。

小林が主演する映画 『渡り鳥シリーズ』 (日活) の昭和37年 (1962年) 正月封切り版 『北帰行より 渡り鳥北へ帰る』 の主題歌となって大ヒットした。小林旭以外にもたくさんの歌手が歌ったらしいが小林旭の唄以外は知らない。
挿入歌として「ダンチョネ節」も歌われているがこれも書生節である。「沖のかもめと飛行気乗りはどこで散るやらね、はてるやら、ダンチョネ」

いくらこの歌の作者が旅順高校を退学処分になった若者だからといって、ギターと拳銃を持った流れ者とはイメージが違う気がするが小林旭のイメージになってしまった。しかし、小林旭は裕次郎よりハンサムだし、声もいいから許す。裕次郎の歌は低くてバイオリンでの演奏には不向きである。
なお、作者の宇田博はその後、一高から東大を卒業した帝大生でもある。

小林旭は高音を売りにしているのでEbで歌っているが、バイオリン演歌では半音下げてDで歌うのが定番であろう。Dなら開放弦を使えば1と2の指がほとんどで、高いDのみが3の指で演奏できる。
もともと学生の歌う寮歌だとすれば、鼻声でこねて歌わないようすべきだ。

北帰行(旅順高等学校寮歌) 宇田博 作詞作曲

窓は夜露にぬれて 都すでに遠のく  北へ帰る旅人ひとり 涙流れてやまず

夢は空しく消えて 今日も闇をさすろう  遠き想いはかなき望み 恩愛我を去りぬ

建大、一高、旅高 追われ闇をさすらう 汲めども酔わぬ恨みの苦杯 嗟嘆(さたん)ほすに由なし
(建大:新京(長春)にあった建国大学、嗟嘆:なげくこと)


映画の北帰行は中国ではなく北海道、函館へ帰る物語である。
映画の共演者はいつもの浅丘ルリ子、そしてなんと”必殺シリーズ”中村主水の妻、中村りつこと白木マリ(万理)もお色気女優(?)として出演してた。

真白き富士の根(七里ヶ浜の哀歌) -2-


元女学生には今でも人気のある歌であり、有名歌手のCDも沢山出ている。2010年にはボート遭難事故から100年になる。知らなかったがこの事件は映画にもなったらしい。
2006年6月18日(日)に開催された第一回大正を楽しむ会でバイオリン演歌としてこの曲を歌った。

一応どのキーでどう歌うかいろいろ帝大生として表現学を研究した。
普通はFでドから始まる場合が多いようだ。ダークダックスやソプラノ歌手等有名なプロのほとんどはFで歌っていた。なぜか倍賞千恵子はDで歌っていた。Dで歌うと曲の出だしが低いラの音であり歌いにくい。

やはり、Fで歌っているほうがキーが高く高音がきれいで感じがいい。でもバイオリン演奏はDの方が断然簡単である。レとラは開放弦で、あとは1と2の指がほとんどで3の指は高いレを押さえるときに1回使用するだけである。もちろん、レとラを4の指で押さえることもできるが、Dで演奏する意味が無くなる。
バイオリン演歌師は歌を強引にバイオリン演奏に合わせるということでキーはDに決まった。

   <七里ケ浜の哀歌>
真白き富士の根 緑の江の島   仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに 捧げまつる 胸と心

ボートは沈みぬ 千尋(ちひろ)の海原 風も浪も 小さき腕に
力もつきはて 呼ぶ名は父母      恨みは深し 七里が浜辺

1.”ましろき”は最初が低いラから始まるのではっきりと、鼻声にならないこと。
2.ましろきから富士へ自然に向かって上がっていく。
3.無垢な女学生の気持ちで素直に歌う。小林旭にならない。鼻でこぶしをつけない。
4.6/8であり、ブレスの位置が5拍目と6拍目の間にあるので注意。
5.”帰らぬ十二のー”がサビであり、”のー”はフェルマータになってもならなくてもどこまでも伸びていく感じで。

<概説>
1910年 (明治43年) 1月23日:ボート転覆事故発生、乗っていた12名全員が死亡。
1910年2月6日:逗子開成中学校にて追悼大法会開催。鎌倉女学校生徒らにより、鎮魂歌としてこの歌が歌       われた。
1915年 (大正4年) 8月:レコードが発売された。
1916年 (大正5年):歌詞・楽譜が刊行された。題名は 「哀歌 (真白き富士の根)」。
         このころから演歌師によって一般に広められた。
1935年 (昭和10年):松竹により映画化。題名は 「真白き富士の根」。
1954年 (昭和29年):大映により映画化。題名は 「真白き富士の嶺」。

書生節 バイオリン演歌 大正演歌 明治演歌 昭和演歌師 平成演歌師

茶摘(尋常小学唱歌) 明治45年


尋常小学唱歌第三学年用にある誰でも知ってい懐かしい歌。日本民謡のようで”せっせっせ””とんとん”と小学校で皆やったことがある。八十八夜は立春から88日目、いまの5月の1-2日頃だそうだ。
5月になれば茶摘ツアーなるものが企画されているが暑いし大変な労働ではないか。

夏も近づく 八十八夜 (とんとん) 
野にも山にも 若葉が茂る(とんとん)
あれに見えるは茶摘じゃないか(とんとん) 
あかねだすきにすげの笠(とんとん)

譜面(G)を見ると<はちや>、<のにも>、<しげる>、<あれに>、<ないか>をスタッカートで短く切って歌うと書いてあった。そんなことは今まで全く知らずに歌っていたが、何も書いて無い楽譜もある。初夏のように軽くという意味か。とんとんと正確に休符する。

梅雨の雨降りでなく、初夏の茶摘のイメージで歌う。
1.(ターン タ タン タン)の八分音符はbowingを短く。
2.弾き始めの発音はしっかりアタック。しっかり圧をかけて、でも曲は重くなく初夏のようにせっせっせ
3.はちや、しげる、ないかの終わりはすべてA、D、Aの開放弦となるのでよく振動する。弓の圧力を減らして軽く。
4.”なつも”は近づくへ向かって歌っていく。”八十八夜”の八十は一番高音になる。”茶摘じゃ”も高音。これらはこの歌のキーフレーズ!

演奏して歌うと休符のときにとんとんと拍手をしてくれて盛り上がった。

どこまでも節(どこいとやせぬ)と下座囃子

<どこまでも節>が添田唖蝉坊作詞の大正演歌<どこいとやせぬ(大正3年)>と曲が同じ歌であることを知った。作曲者は不詳とあった。シャンソンの女王である越路吹雪も「コーちゃんのお座敷うた」の中でどもまでも節や東雲節(ストライキ節)、まっくろけ節を歌っている。

また、どこまでも節が千葉県の成田祇園祭でも下座囃子として演奏されていることを知り驚いた。祇園祭にはよく行っていたが気がつかなかった。腹当に股引の若い衆が「華厳の滝」と叫んでいるのがどこまでも節だそうだ。成田祇園祭は笛、太鼓、鉦で演奏し、阿波踊り等とは全く違い三味線はない。
(写真は山車で乗演する下座連)

<お前とならばどこまでも (それ)どこまでも (それ) 華厳の滝の中までも それ! いとやせぬ それ! いとやせぬ あよいしょ!>と<それ!>を入れて明るく元気にはやしている。<いとやせぬ>は同じメロディとテンポで繰り返しており、<日光の>の代わりに<どこまでも>をいれて強調している。地域やお祭り等使用目的によって変わっていったのであろう。

バイオリン演歌でやっていた曲がなおも三味線で俗曲として演奏されたり、祭囃子として演奏されたりして生き続けていることは大変うれしい。まっくろけ節やストライキ節はバイオリン演歌でもやるし、三味線でも聴いたことがあるが、どこまでも節を三味線でも聞いたことはない。一度聞いてみたい。

どこいとやせぬは<御国のためならどこまでもーーーー何いとやせぬ かまやせぬ>とブラックユーモアたっぷりに皮肉っている兵隊ソングだが、どこまでも節は男女関係の歌である。
囃子言葉はその他、<こちゃ いとやせぬ かまやせぬ>と歌っているのもある。

どこまでも節        

お前とならばどこまでも 箱根山 白糸滝の中までも   とこいとやせぬ かまやせぬ

白糸滝はまだおろか 日光の 華厳の滝の中までも  とこいとやせぬ かまやせぬ

華厳の滝はまだおろか 浅間山 燃え立つ煙の中までも    とこいとやせぬ かまやせぬ

燃え立つ煙はまだおろか 太平洋 逆巻く怒濤の中までも  とこいとやせぬ かまやせぬ

逆巻く怒濤はまだおろか アメリカの ナイヤガラ瀑布の中までも とこいとやせぬ かまやせぬ

ナイヤガラ瀑布はまだおろか アフリカの 照り着く砂漠の中までも とこいとやせぬ かまやせぬ

照りつく砂漠はまだおろか 北極の オーロラ見ゆる果てまでも   とこいとやせぬ かまやせぬ

オーロラ見ゆるはまだおろか 心中して地獄の釜の 中までも    とこいとやせぬ かまやせぬ

地獄の釜はまだおろか 極楽の 蓮華の花の上までも  とこいとやせぬ かまやせぬ

蓮華の花はまだおろか 奥座敷 電気の消えた四畳半  とこいとやせぬ かまやせぬ 

別名カマヤセヌ節ともいい、大正3年頃流行した俗謡で、一種の尻取り言葉に面白みがあるので、歌詞をかえればどこまでも唄いつづけられる。
今は学生のアパートでもふすまで仕切られた四畳半はないだろうし、電気が消えている必要性はないのでは?

佐原系下座囃子 :
端物は、祭礼中もっとも演奏される一般的な曲群である。基本曲以外は、各流派各下座連により独自の曲を持つことも多い。
民謡や端唄などを取り入れる柔軟さを持ち、現在でも新曲を取り入れるという姿勢が見られる。演奏は笛(複数),附締太鼓,鉦,大皮,小鼓(複数),大太鼓で行われる。

端物(はもの):矢車、盾くずし、中山、矢車くずし、新吉野、拳囃子、津島、巣籠りくずし、獅子馬鹿、二編返し、猫じゃ、おやまか、船頭小唄、佐原小唄、佐原音頭、大漁節、松飾り、大和、小見川あんば、串本節、木曽節、どこまでも節、ノーエ節、恋慕小唄、ズンドコ節、ラバウル小唄、鈴舞等

演歌師による七里ヶ浜の仇浪(七里ヶ浜の哀歌)(真白き富士の根)

神長瞭月発行のバイオリン楽譜(大正12年、発行者 神長源ニ郎、定価金五十銭)にも七里ヶ浜の仇浪として記載されている。後でも述べるが一部の歌詞は今では変化している。

明治43年(1910)1月23日、神奈川県逗子開成中学の生徒(同校生徒11人と逗子小児童1人)が七里ヶ浜の沖で突風にあおられて乗っていたボートが転覆した。海中に放り出された12名は、冷たい冬の海の中で助けを求めたが、次々と海中に没した。

遭難者全員の遺体が発見されたのは、事故発生から4日後の1月27日だった。2月6日、校庭で追悼大法要が行われた。式の最後に、そろいの黒紋付き・はかま姿の鎌倉女学校生徒が歌ったのが、「七里ヶ浜の哀歌」である。
作詞者は鎌倉女学校で数学を教えていた三角錫子教諭で、曲は賛美歌の”When we arrive at home”(帰郷のよろこび)を使った。
三角教諭のオルガン伴奏で歌われた「七里ヶ浜の哀歌」は、その後、全国の女学生らに愛唱された。また、大正時代に入り演歌師のよって広く普及した。
遭難事故のことは知らなくても、賛美歌の美しいメロディーと悲しみに満ちた歌詞を知っている人は多いであろう。写真は鎌倉市にある”ボート遭難の碑”(兄弟の像)である。

実は今、この曲を練習している。金色夜叉の唄やほととぎすのように物語性があり、大変気に入っている。
野ばら社の楽譜はFで”ドファファファソラ”で歌いやすいが、バイオリンの弾きやすさを優先するとGかDである。Gはレの開放弦から始まるので演奏しやすいが最高音が高いソになってしまうので無理がある。そうすると消去法でD調”ラレレレミファ#”しかなくなってしまう。なんと、1と2の指ばかりで、3の薬指は1回しか使わない!もちろん、低くて歌いにくいとの意見もある、訓練で声を強引にバイオリンに合わせるしかない。

歌詞に”み魂”とか”ささげまつる”、”神よ早く我も召せよ”とあるが、曲が賛美歌であると知り納得した。

大正12年の歌詞からみると歌っているうちに変化してきているようだ。
”富士の峰”が”富士の根”、”仰ぎ見る眼も”が”仰ぎ見るも”、”か弱き腕”が”小さき腕”、”み夢にむせびし”が”み雪にむせびし”、”親の胸に”が”母の胸に”等である。
親の胸にが父だけ無視されて母の胸に変化したのは男としては悲しい!母は偉大なりか。
また、最近は腕を「うで」とみな歌っているが年配者は「かいな」と歌っているようだ。

石田一松の弟子で最後の演歌師であった桜井敏雄(1909~1996)の録音でも、神長瞭月発行のバイオリン楽譜通りに「仰ぎ見る眼も」、「捧げまつらん」とはっきり歌っていた。大正12年の歌詞も演歌師が全国にはやらせたと推測できる。

桜井敏雄バイオリン演歌演奏: 七里ヶ浜の哀歌


 七里ヶ浜哀歌(七里ヶ浜の仇浪)
 真白き富士の根 緑の江の島 (真白き富士の峰 緑の江ノ島)
 仰ぎ見るも 今は涙     (仰ぎ見る眼も 今は涙)
 帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
 捧げまつる 胸と心     (捧げまつらん 胸と心)

 ボートは沈みぬ 千尋の海原
 風も浪も 小さき腕に    (風も浪も か弱き腕に)
 力もつきはて 呼ぶ名は父母 (力はつきはて 呼ぶ名は父母)
 恨は深し 七里が浜辺     (恨も深し 七里が浜辺)
 
 み雪は咽(むせ)びぬ 風さえ騒ぎて(御夢(みゆめ)にむせびし、風さえ騒ぎて)
 月も星も 影をひそめ
 みたまよ何処に 迷いておわすか(みたまよ何処に 迷いておわすや)
 帰れ早く 母の胸に      (早く帰って 親の胸に)

書生節 バイオリン演歌 大正演歌 演歌師 

月がとっても青いから(菅原都々子) 昭和30年

「月がとっても青いから」は菅原都々子が1955年(S30)に歌って大ヒットした。 同年に日活製作の同名の映画が公開された。 作詞:清水みのる、作曲:陸奥明

月は赤か黄色にみえることが多いはずだが、恋人同士では青く見えたのかも知れない。女性が「月がとっても青いから」といったら男性は「どうみても黄色だよ」とはとてもいえない状況だったのだろう。

書生節・バイオリン演歌演奏:
昭和ロマンを楽しむ会 (帝大生ゆめじ&青空ぴーまん&女学生2名)  
新宿レガスまつり2012  新宿コズミックセンター 2012年4月7日
1 月がとっても青いから 
  遠まわりして帰ろう
  あの鈴懸の並木路(なみきじ)は
  想い出の小径(こみち)よ
  腕をやさしく組み合って
  二人っきりでさあ帰ろう

2 月の雫に濡れながら
  遠まわりして帰ろう
  ふと行きずりに知り合った
  想い出のこの径(みち)
  夢をいとしく抱きしめて
  二人っきりでさあ帰ろう

3 月もあんなにうるむから
  遠まわりして帰ろう
  もう今日かぎり逢えぬとも
  想い出は捨てずに
  君と誓った並木みち
  二人っきりでさあ帰ろう

書生2名&女学生2名  書生節 バイオリン演歌 海老茶式部 昭和歌謡 演歌師 昭和演歌師 平成演歌師 昭和ロマンを楽しむ会