2013年7月16日火曜日

演歌師による七里ヶ浜の仇浪(七里ヶ浜の哀歌)(真白き富士の根)

神長瞭月発行のバイオリン楽譜(大正12年、発行者 神長源ニ郎、定価金五十銭)にも七里ヶ浜の仇浪として記載されている。後でも述べるが一部の歌詞は今では変化している。

明治43年(1910)1月23日、神奈川県逗子開成中学の生徒(同校生徒11人と逗子小児童1人)が七里ヶ浜の沖で突風にあおられて乗っていたボートが転覆した。海中に放り出された12名は、冷たい冬の海の中で助けを求めたが、次々と海中に没した。

遭難者全員の遺体が発見されたのは、事故発生から4日後の1月27日だった。2月6日、校庭で追悼大法要が行われた。式の最後に、そろいの黒紋付き・はかま姿の鎌倉女学校生徒が歌ったのが、「七里ヶ浜の哀歌」である。
作詞者は鎌倉女学校で数学を教えていた三角錫子教諭で、曲は賛美歌の”When we arrive at home”(帰郷のよろこび)を使った。
三角教諭のオルガン伴奏で歌われた「七里ヶ浜の哀歌」は、その後、全国の女学生らに愛唱された。また、大正時代に入り演歌師のよって広く普及した。
遭難事故のことは知らなくても、賛美歌の美しいメロディーと悲しみに満ちた歌詞を知っている人は多いであろう。写真は鎌倉市にある”ボート遭難の碑”(兄弟の像)である。

実は今、この曲を練習している。金色夜叉の唄やほととぎすのように物語性があり、大変気に入っている。
野ばら社の楽譜はFで”ドファファファソラ”で歌いやすいが、バイオリンの弾きやすさを優先するとGかDである。Gはレの開放弦から始まるので演奏しやすいが最高音が高いソになってしまうので無理がある。そうすると消去法でD調”ラレレレミファ#”しかなくなってしまう。なんと、1と2の指ばかりで、3の薬指は1回しか使わない!もちろん、低くて歌いにくいとの意見もある、訓練で声を強引にバイオリンに合わせるしかない。

歌詞に”み魂”とか”ささげまつる”、”神よ早く我も召せよ”とあるが、曲が賛美歌であると知り納得した。

大正12年の歌詞からみると歌っているうちに変化してきているようだ。
”富士の峰”が”富士の根”、”仰ぎ見る眼も”が”仰ぎ見るも”、”か弱き腕”が”小さき腕”、”み夢にむせびし”が”み雪にむせびし”、”親の胸に”が”母の胸に”等である。
親の胸にが父だけ無視されて母の胸に変化したのは男としては悲しい!母は偉大なりか。
また、最近は腕を「うで」とみな歌っているが年配者は「かいな」と歌っているようだ。

石田一松の弟子で最後の演歌師であった桜井敏雄(1909~1996)の録音でも、神長瞭月発行のバイオリン楽譜通りに「仰ぎ見る眼も」、「捧げまつらん」とはっきり歌っていた。大正12年の歌詞も演歌師が全国にはやらせたと推測できる。

桜井敏雄バイオリン演歌演奏: 七里ヶ浜の哀歌


 七里ヶ浜哀歌(七里ヶ浜の仇浪)
 真白き富士の根 緑の江の島 (真白き富士の峰 緑の江ノ島)
 仰ぎ見るも 今は涙     (仰ぎ見る眼も 今は涙)
 帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
 捧げまつる 胸と心     (捧げまつらん 胸と心)

 ボートは沈みぬ 千尋の海原
 風も浪も 小さき腕に    (風も浪も か弱き腕に)
 力もつきはて 呼ぶ名は父母 (力はつきはて 呼ぶ名は父母)
 恨は深し 七里が浜辺     (恨も深し 七里が浜辺)
 
 み雪は咽(むせ)びぬ 風さえ騒ぎて(御夢(みゆめ)にむせびし、風さえ騒ぎて)
 月も星も 影をひそめ
 みたまよ何処に 迷いておわすか(みたまよ何処に 迷いておわすや)
 帰れ早く 母の胸に      (早く帰って 親の胸に)

書生節 バイオリン演歌 大正演歌 演歌師 

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